石の投げ方?自然の猛威!

2004年10月24日

文章の妙!

3a5deba1.JPGかなり前の話だが、車のラジオで芥川賞と直木賞の話題を取り上げていた。果たして賞を取った作品は読まれているのか?という内容である。だいたい今の自分は、何と言う作者の何と言う作品が賞を取ったのかも判らないのが普通である。それだけ今は本を読んでいない、ということになる。
最近の「蹴りたい背中」「蛇にピアス」が18〜20歳の女性が受賞したとの報に接し、人間の奥の深さに驚き、50歳を過ぎた自分の不甲斐なさに言い知れぬ寂しさを感じてしまう有様だ。


冒頭のラジオで取り上げていたのは、何年受賞作か忘れたが、芥川賞は当時京都大学の現役学生で今風の茶髪にピアスの平山啓一郎氏の「日蝕」であり、直木賞は宮部みゆき氏の「理由」である。この作品が一般的に読まれているのか?ということを調査したものだったが、結論は芥川賞作品で言えば70万人がこの本を手にしているだろう、という結論である。しかし、ほとんどが「ツンドク」で、実際に読む能力をもって読んだ人は10万人はいないだろう、とも言っている。それだけ難しく、10ページ、20ページ読んで難しくて諦めてしまう、これが一番多いと言う。ラジオでは何が難しいのか?ということをハッキリ言っていないので、私にも何が難しいと言っているのか判らなかった。読むことはできるが、内容がさっぱり判らないのか?しかし、書いているのは日本語だから、理解できないことはないと思うのだが、これは小説で専門書ではないのだから、物語の筋くらいは判るのではないか?そもそも書いている漢字そのものが判らないのか?:結局、私には何が判らなくて諦めてしまうのかが判らなかった!
大変失礼なことでお詫び申し上げるが、当時、本屋よって芥川賞の「日蝕」を立ち読みした。15分で丁度11ページ読むことができた。印象は正直に「面白くない」である。文章は旧式の一人称で書かれている。それが本当に旧式の今は使うことのない文語体である。こんな言葉に漢字をあてはめるか?と思うようなところにも漢字を使用している。時代背景は1482年のパリでパリ大学の神学生の物語である。キリスト教徒である主人公が大学の蔵書の中に異教徒の経典のようなものを見つけて、それに対する自分の哲学をこんこんと述べて行く。私が読んだ最初の11ページはそんな感じである。しかし、文章を難しく書きすぎて違和感を覚えてしまう。本当に旧式の判りずらい文章にする必然性が、この物語にはあるのか?文章の美しさを感じることはできなかった。勿論、自分はこのような文章を書くことはできない。そこには稀な才能を感じることができる。しかし、過去の文豪の文章に感じるような、文章の美しさは、残念ながら感じることはできなかった。別の目的、日本語の文語体を後世に残すということであるならば、その価値は計り知れないものがある。それと小説の面白さや風格や文章の美しさなどは無縁のことであるからだ。私には旧式の文語体を使わざるを得ないような必然性を、この物語の序章の11ページからは感じることができなかった。文章は大変難しいが、そこに美しさも風格も感じなかった、ということである。当時40代の文学の好きな自分としては、書いてある文章は理解することができた。通常の文章と同じように読むことはできたのだが、そうであるだけに、敢えて判りずらい文章にする必要があるのか?ということに疑問を持った。
たった11ページを読んだだけで論評するのは大変失礼であるのは、お許し願いたい。
年代に、難しい文章を読める読めないの区別はないと思うが、今風の20代の人にはまったく読めない文章であるには違いないと思う。きっと年代に関係なく、文学に人生の一時期、のめり込んだことのある人でないと、この文章はきっと読めない。それだけ、すべての事柄を、純文学とはこういうものだと言わんばかりに、難しく書いている。書きながら、それを楽しんでいるような作者の顔が浮かんできて、自分として独りよがりの思いではあるが、面白くなかった。冒頭に「面白くなかった」と書いたのはそういう意味である。
三島由紀夫の「豊穣の海」という彼の最後の作品がとても印象に残っている。それは何故かというと、彼が昭和45年11月25日(自分は高校2年17歳であった)に当時、市ヶ谷にあった自衛隊の東部方面総監部で自刃した時に、この作品の最後の原稿を出版社に渡してから死に赴いたということもあるが、それ以上に、この作品がすべて旧字体で書いてあったからだ!今風に言えばすべて第2水準の漢字を使用して書いてあったわけである。これには大変驚いた。そして日本語の文語体の形の美しさのようなものまで感じたものである。最初は、書いている漢字自体が判らない状態だった。それで、とにかく旧漢字を調べてまず読めるようにした。だからこの作品は何度も何度も読んだものである。大抵は当時読んだ本の内容は忘れてしまうのだが、この作品だけは何年たっても忘れることがない。私の体に染み付いてしまっている。最近、本屋に行った時に文庫本を覗いてみたら、この「豊穣の海」があった。「春の雪/奔馬/暁の寺/天人五衰」の4巻だが、手にとってページをめくって驚いた。すべて当用漢字に変身していたのだ。これは許されることなのか?と考え込んでしまった。何故なら、旧字体による文章が、その物語の時代背景や、その物語の持つ匂いや、感触や、風格や、人間の五感で感じ取ることができるすべてを包含しているからである。ただ、読みやすい文章ならいい、それでいいはずがない。
見た目は同じでも「日蝕」との違いを痛切に感じた。

kenhappy1 at 00:54│Comments(2)TrackBack(0) 芸術 

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この記事へのコメント

1. Posted by レオ   2004年10月24日 12:27
先生、ブロードバンドのコメントありがとうございました。実は、自宅ではなくて75過ぎた父親の夢をかなえてあげるブロードバンド化プロジェクトです。だからブロードバンド化してあげる事が重要で、値段は一番安上がりな商品にしました。16Mで無線LANのサポートしてくれるサービスです。局からは1.3Kでした。今32Kモデム使ってるから大丈夫でしょう(笑)
読書、大切ですね。私は小さい頃からもっぱら体を動かす事が得意で、感想文かけ、と言われて仕方なく本を読んだ覚えがあります。スポーツ選手になれればその言い訳もありでしょうが、今となってはただの責任転嫁。先生の記事で勉強させてもらってます。
2. Posted by kenhappy   2004年10月25日 12:28
レオさん、コメントありがとうございます。
そうでしたか、お父様のでしたか。
それは孝行娘!大変よろしいことです。

blogは何とか続けて書いています。
これも、「書くぞぉ〜」という強い意志がないと、すぐ萎えてしまうので、自分にカツを入れながら頑張っています!(笑)はてさて、どこまで続くやら!

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