2011800d.GIF「40歳にして惑わず」これは人生50年を前提にしている?そうである。そうなると、人生80年の現代の不惑は70歳ということになる?51歳になんなんとする自分は未だに惑いばかりで、まったくもって心もとない。
幼き日、大人といわれる人と接するとき、本当にかなりの大人に見えたものであるが、いざ自分が十分すぎる歳を重ねた今も、歳に自信が持てず、自分の思いとしては子供のままである。きっと幾つになってもこの思いは変わらないのだろう。現代の不惑70歳を迎えて、なお自分の歳に自身が持てないのか?できれば人生の達人になっていたいものである。無理に決まっているが!(笑)

精神的に大人か子供かは別にして、自分が肉体的な歳を感じたのは厄年である。何をするにも体が言うことを利かなくなってきたのだ。「おかしい、どうしたんだ、体が思うように動かない、こんなはずじゃない」これまで、感じたことのない体の反応が不安を増幅させる。何ら意識することなく、いとも簡単にできたことが簡単ではなくなってくる。これが老いというものなのか、と初めて歳を意識したのが厄年42歳であった。
何事もそうであるが、実際に経験してみないと、はっきりしたことはわからない。それは当たり前のことであるが、往々にして、たいしたことはなかろうと想像で判断してしまう。老いを感じてからは、人生の先輩に対して素直に思いやる心が湧いてくるようになった。
物事、経験してからでは遅すぎることの方が多いかもしれない。未経験は恥じることではないが、事にあたって、想像ではなく、賢者の意見に素直に耳を傾ける謙虚さがあるなら、未経験が経験となったときの不安は解消され、しっかりと未来を見据えることができるだろう。