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<昭和40年代後半、1970年代の仙台駅>

 この日も健介は無常に流れ行く冷酷な時間と戦いながら、やっとの思いで寝る時間に辿り着くことができたのだった。
 均整のとれた理香の肉体が豊穣となって、眠りに就こうとする健介の精神を蝕むのだった。
 彼はこの眠られぬ夜に家を飛び出した。あの辛辣な手紙を携えて!
 あと十日間の日々をじっと耐えるつもりで書いた手紙だったが、最早彼には耐えることができなかった。
 一時間ほども歩いたろうか、知らず知らずのうちに健介にとっては思い出深い、この愛宕山にやって来てしまったのだ。
 健介は再び石段を登り始めた。雨は尚も健介の心を陰鬱に濡らし続けていた。
 登りながら健介は一編の詩を彼の心に書き留めた。
 
 若者は思い出の石段を登り詰めようと必死なのです
 急ぎたくはないのです 噛みしめながらゆっくりと
 一段登ると荒野が若者を包みます
 しかし若者は荒野よりも草原を望んだのです
 二段登ると荒野が草原に変わります
 しかし若者は草原よりも花を望んだのです
 三段登ると草原が花で満たされます
 若者は微笑んでその花に口付けます
 若者はその花を愛したのです
 ” 駆けよう 駆けよう 輝く愛の未来が待っている ”
 若者は焦りました
 駆けようと思った瞬間に石段が消えたのです
 最早登ることはできません
 若者は今踏みしめてきた石段を振り返りました
 急に黒い雨が降り出し その石段を暗闇に包んだのです
 最早登ることも戻ることもできません
 今いる世界は花で満たされています
 若者は気づきました
 その花が黒い雨色に変わったことに
 それは紫陽花だったのです
 紫陽花の移り気が 若者から愛を奪いました
 所詮 登ることも戻ることもできない
 儚い愛の幻想なのです

 前方に愛宕神社の鳥居がうっすらと健介の目に焦点を結んできた。
 今の健介には、その鳥居が彼の精神を蝕む地獄の門のように思えた。
 <以前に理香と二人で来たときには、あの鳥居は正に幸せの門だった、それなのに今は...。>と彼は石段を登り続けながら敢えてそれを見ようとはせずに思った。
 やがて健介は、その鳥居に吸い込まれて行った。鳥居の向こうには社が夜の静寂と靄に包まれてもなお威容にその荘厳ないでたちを鼓舞するかのように泰然としている。
 健介は、その社には目もくれず、その直ぐ傍にありS市街を一望できる東屋に向かった。
 <あの社は俺の願いを聞いてはくれなかった>と彼はその東屋に向かいながら社を憎んだ。
 以前に、この社に理香と二人で来たときに、健介は彼女と一緒に幸せを祈り、結婚を誓ったのだった。
 軒を四方に吹き降ろした簡素な東屋の中で彼は考えた。
 <理香と初めて口づけを交わしたのがこの東屋だった、それはなにものにも喩えようのない幸せを俺に与えてくれた、今となってはそれも夢に過ぎないのか、やっぱり人間とは面白く哀しいものなんだな、俺に最高の幸せを与えてくれた人間が今度は俺を奈落に突き落としてしまった、それも男にとっては最もやりきれない仕打ちによって、理香はどうして俺から去ってしまわなければならなかったんだ、俺がなにをしたとい言うんだ、どんな酷い仕打ちをしたと言うんだ...。>
 今の健介には理香の気持ちを察する余裕などは全くなかった。ただ、彼女に裏切られたという気持ちの慟哭だけが彼を襲うのだった。
 今の健介の傷心を無視するかのように夜の街を照らすネオンサインが彼の心に眩しかった。
 その光に照らされて、東屋の周りに咲く紫陽花が異様な美しさを湛えながら、言い知れぬ翳を創り出し、彼の心を覆い尽くしていくのだった。
 <あの女はこの花のようだ>と彼は思い、その花の一輪を無下に折り取った。
 <よし、今日に賭けよう>と彼は思った。
 <理香のアパートに行ってあいつが起きるのを待とう、そして総べてを問いただそう>
 健介は折り取った紫陽花を片手に東屋を去り、理香のアパートへと、先ほど登ってきた石段を下り始めた。

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今夜はここまでにします!