今日から2月です。
冬本番ですが、大学受験の時期でもあります!

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自分の大学受験を振り返ってみます!(笑)

まったく自慢になりませんが、本格的に受験勉強を始めたのは高校3年生になってからです。
当時は父の仕事の関係で、都市部ではなく父の転勤先の郡部に住んでいたので、仙台市ではなく仙南の人口数万の市に住んでいました。
高校は仙南では最も学力の優れた高校で進学校でしたが、郡部なので出来る出来ないの格差は大きかったように思います!
その市の中学でクラス平均で5人が入れる高校でした。
人口数万の市なので、そんなに多くの高校がある訳ではなく、殆ど誰もが入りたいと志望する高校でした!
当時の中学は10クラスあったので約50人がその高校に行けました!
結構な数ではあります!(笑)

私は中学はそれなりに成績もよく、この高校に何の苦労もすることなく入学し、大した受験勉強をしたという記憶もありません。

すんなり合格して、高校生活を送ることになりますが、大らかすぎる態度がどこにでもいそうな悪な上級生の癇に障ったのでしょうか?
謂れのない暴力的な制裁を受けるようになります!

この進学校でもそんなことがあるのかと落胆し、心の落ち込みは尋常ではありませんでした。
これが面白くなくて、勉強をしなくなり、毎日本ばかり読んでいました。
高校時代に読んだ本の数が人生で一番多いと思っています!(爆)

昭和45年、1970年に自衛隊市ヶ谷の東部方面総監部に三島由紀夫が楯の会メンバー森田必勝とともに総監を人質に、総監室を占拠し、70年安保闘争に自衛隊の治安出動がなかったことに憂いて、アジを飛ばしましたが、自衛隊員の反応は冷たく、ついには総監室で割腹自殺を遂げます。
介錯は森田必勝が行いました。

彼には陽明学があり、知行合一、「知って行わざるは未だこれ知らざるなり」を実践した形になりました!

高校の漢文の先生が、このことに触れ、「三島には陽明学があった」「陽明学を一言で表現すると何というか知っているか?」と問われました。
だれも答えない中、私が「知行合一」と答えると、漢文の先生はビックリしたような顔になり「その通り」と応じたのを今でも思い出します。

これも読書の賜物であったことは言うまでもありません。

とにかく勉強はせずに本ばかり読んでいました。
そのために、220名しかいない学年の生徒数で、成績は200番を通り越してしまいました!(笑)
勉強していないのですから当然のことです。

3年生になるまで2年間を読書で過ごしました。
3年生になれば誰も私を気にするものはいなくなります。
最上級生ですから当たり前のことです。

すっかり落ちてしまった成績を何とか上げなければならない時期に入りました。
何故なら、大学受験が待っているからです。

成績を少しでも上げるべく、自分の受験勉強が始まりました。
学校から帰って来たら夕食もせずに直に寝て、00:00に起きて、それから受験勉強です。
これを1年弱の間、続けることになります。
当時は深夜放送花盛りの頃です。
オールナイトニッポンを聴きながらの勉強なので、大したことがないと言えばそうなります!(爆)

その成果は徐々に現れ、その年の暮れには、200番外だった成績が11番まで回復しました。

どこの大学でなければダメだとか、自分としてこの大学に入りたいというような欲求はまったくなく、淡白なものでした。

ただし、私の高校から50人は入学する地元の大学だけは行きたくありませんでした。
正に私を2年間も悩ませた高校の延長になってしまいます!

そう思っている最中、私も存在を知っていて、実際に行ったこともある千葉商科大学の推薦入学案内が高校に来ていました。
私の姉がこの大学の傍に住んでいて、私も耳鼻科の手術のために、この大学の近くの病院に入院し、何度か大学構内を通ったこともあり、馴染のある大学でした。

迷うことなく、即、担任に推薦入学を依頼します。
推薦の基準は校内で1/3以上の成績が必要ということになっていました。
それはクリア出来ていたのですんなり推薦が決定しました。

君子危うきに近寄らず!
そのようにして、2月初旬には合格通知が来ました。

逆を言えば、虎穴に入らずんば虎子を得ず!ということになります。
それは避けてしまいましたが、今思えば、これで良かったと思っています。

様々な高校生活があり、受験勉強の在り様も一様ではありません。
志を高く持つことは素晴らしいことです。
それに邁進できれば幸せなことです。
そうでない場合であっても、身の丈に合った受験があっても可笑しくありません。

受験生のみなさんの奮闘を祈ります!