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GAIAさんという方がコメントに残してくださった確定論です。

【哲】0的確定論

『或質的な面が物理的に確定する場合の確定要素は【0】である。』


【0特性】

・絶対性
拡がりが無い,

・不可分性
分けられない,

・識物性
存在の1の認識が可能, 即ち考えるもとの全てが【0】より生ずる, 但し質的な変化に対し絶対保存できない,

・変化性
物による逆の確定が不可能な変化 (可能性の確立), 即ち存在の【1】を超越して変化する。


【0特性】を普遍化すると, 時間平面的な視野は物的ではなく, 質的に変化していることになる。その根拠が【0∞1】, 有限的無限性を有する物による質の確定が不可能であること, そもそも確定する質が何かを知り得ない以上, 物理的確定論は絶対的ではなく類似事的な確定であること, である。

【零的確定論】では, 一つの時間平面が, 広がり無き【時(とき)の間(はざま)】に確定していると考える。同様に空間を捉え, 【空の間】に空間を置き, 絶対的変化を与える【質】を流し込む。つまり時間平面は, この表裏不可分の裏側の【絶対無】により0的に確定されることになる。
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哲学は物事の根本原理を追求する学問です。
深く狭くある一つのことを追求し、その生業を解き明かすことに全神経を集中して人間心理の闇に光明を灯すべく努力することでもあります。
不特定多数を対象とするブログのテーマとしては適さない範疇に入る事象かもしれません。
このコメントが付けられた私の記事は「3D MARK」パソコンの3D機能のベンチマークを紹介したものでした。
そこに投稿されたコメントでしたが、私が不適切と判断し公開はしていませんでした。
私は哲学することは決して嫌いではありません。
何故なら哲学は人間の欲求を満たすためにあるものだからです。
広義として大学の専門課程は哲学そのものと言っていいかもしれません。
経済学であろうと法学であろうと芸術であろうと、すべてはそれらの根本原理を追求するために在るからです。
一般教養は高等学校までで卒業、大学での一般教養は高等学校のそれには及びません。大学での本分は専門課程に尽きます。
すべてはザインやゾルレンを自分の精神世界(形而上的)に取り込んで消化不良を起こさないように自分自身の生業を明らかにするところから始めなければなりません。
科学的存在、社会的存在、様々な枝分かれがあります。個人的存在というのも面白いかもしれません。
皆さんも自分の存在そのものについて深く考えてみてください。
悠久の宇宙の中のありふれた銀河系、その中の端っこオリオン腕に位置する取るに足らない太陽系、その中の第3惑星地球、46億年の時間の流れの今に存在する「自分」というものを考えたら、それは奇跡だと誰もが気づくでしょう。
単純に考えただけでも奇跡は存在します!
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