犬!HPという港!

2009年02月02日

家!

皆さんは「家」から何を連想するだろうか?
いつも思うことは、自分には「家」というものがなかったな、ということである。
住む家がなかったという意味ではない。10代までの自分の友人にはサラリーマンの家庭は少なかった。自営だったり農家だったりで、昔からの「家」があり、それは代々受け継がれてきた「家」なのだ。故に家長を頭にした因習が色濃く残っていた。
自分は転勤族のサラリーマン家庭で育ち、あちこちと住まいを替え、その度に転校を余儀なくされた。まったく「家」というものに縛られることがなかったのだ。「家」を継ぐという意識、「家」を守るという意識を感じなかった。
それが、「家」に縛られた人間には羨ましく思えたようだ。よく友人に言われたものだ「お前には家というものがないから気楽だな」と。
実際、自分の生まれた「家」を見たことがない。生まれた町を訪ねたことはあるのだが、どこで生まれたのかは判らなかった。父の会社の社宅生まれである。生まれてすぐ転勤になったので、生まれた町もしばらくは判らなかった。父の生まれた町も知っているが、その実家は存在しない。おかしく思えるかもしれないが、何年も本籍となっていたその場所に一度も行ったことがない。番地だけは諳んじているのだが!それを不思議にも思わなかったところに「家」というものを意識していない根拠がある。
普通なら、正月やお盆や年の節目には、親戚縁者が「家」に集まるものだが、そういうこともなかった。父の両親は私が生まれる前に亡くなっているので、父方の祖父祖母のことは何も知らない。父方の自分が知っている縁者は、姉が一人存命であることくらいだ。故に一般的に「おじいちゃん、おばあちゃん」の代くらいは誰もが知っていると思うが、父方に関しては何も判らない。あまりない例ではなかろうか。
自分には子供がいないので、自分が抱いてきたような妙な「家」の感覚を、自分の子供が思うことはないのだが、今、住んでいる自分の「家」は子供を持たない自分には、自分1代限りで朽ち果ててしまうのだろうと思うと、何か寂しいような不思議な心境になる。それがまた、「家」というものがなかった自分を象徴しているようでもあり面白い。
その妙な「家」の墓を今は自分が守っている。時の経過が母を、そしてやがては自分を納める墓だが、子供を持たない自分には、その後の守りはどうなるのか?先のことは判らないが、無縁仏になるのにそうは時間がかからないような気もしている。
「家」という概念は、正に「家」を守るという言葉に含む様々な事象を包含していて、考えれば考えるほど、その大事さが見えてくる。
誰を恨むということはないが、「家」を感じることがなかった自分の末路としては、無縁仏も仕方がない。

2005年の2/2に書いたブログです。過去のブログを読んでみるのも趣があります。
誰に残すこともない家なので、25年住み慣れた家ではありますが、昨年に売却しました。今は気ままに借家暮らしです。

kenhappy1 at 17:58│Comments(0)TrackBack(0) 徒然なるままに 

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