50年前から56年前くらいまでの7年間住んだ町の傍に仕事で毎日来ています!
仙台駅から歩いて20分圏内に、そのときの私のフィールドのすべてがありました。
今の映像をGoogleストリートビューで紹介します。
国道45号線沿いのフィールドです。
小学校1年生のときのフィールドの限界点が花京院でした。
その交差点です。
45号線を東から西に見ています。
流石に駅手前の交差点なので立派になりました。
映っていませんが、左手に花京院スクウェアの高層ビルがあります。
この花京院交差点を東に向かって歩いて行きます。
最初は、空堀丁です。
花京院交差点から一つ目の路地です。
路地と言ってもいいでしょうね。
昔と変わらず道幅が狭い。
仙台駅から急げば5分程度で来ることができます。
もう少し発展してもいいような気がしますが、昔からの地権者が土地を譲らないのでしょうね!
看板を見れば分かりますが、ここの耳鼻科には随分通いました。
50年ちかく前から、よく言えば進歩的に耳鼻科系の手術を積極的に行った耳鼻咽喉科です。
私も2回くらい手術をしています。
人柱になったということです!(爆)
次は、宮町交差点、ここを左に行けば東照宮にぶつかります。
次の路地は金剛院丁です。
院がつく地名が多いですが、これは伊達藩の修験寺の名前なのです。
花京院、金剛院、そして後で出てくる大行院、どれも山伏のよりどころでした!
ここの角にある内科医院に父の往診を頼んだことを想い出します。
とにかく国道45号の北側に伸びる道路は昔も今も変わらず狭い。
再開発が進んでいない地域です。
次の広丁です。
少しは道が広くなったか?
いよいよ私が小学1年生の2学期から中学1年終了まで住んだ、大行院丁、です。
45号線を車通りと言いました。
大行院丁から車通りを見たところです。
向かいの左角に酒屋があり、父のお使いで徳利を持って酒を買いに行ったことを想い出します。
もう酒屋はなくなっています。
大行院丁の入り口に中華そば屋がありました。
とても美味しい中華そばでした。
50年以上前で1杯50円だったと記憶しています。
その1杯50円の中華そばを、年末に母が子供達を連れて食べさせてくれました。
当時は外食など滅多にしなかった時代です!(笑)
この右角にあったのですが、今はちょっとしたビルに変わっています。
北に進んで行きます。
銭湯がありました。
家にお風呂はありましたが、悪ガキ連中と連れ立って、よく入りに行ったものです!(笑)
ここには大きな八百屋がありました。
今はダバコ屋でしょうか?
そして食料品店があったところです。
今は違う建物です。
ここに、ボールを持参して豆腐半丁ください、10円の海苔1枚ください、などと言って買い物をしたものです!(笑)
ここには交番がありましたが、なくなっています。
ここの左官屋さんは昔通りです。
息の長い左官屋さんですね!
洋服店もまだ建物はあります。
ここも古いですね!
そして私が住んだ3Kの今風に言えばマンションです。
50年以上前でも浄化槽による水洗トイレでした。
キッチン、風呂もありました!
当時は、このようなマンション風の建物は周りに皆無でものすごく立派に見えました!
もっと家は立ち並んでいましたが、駐車場になっていたりします。
この先は、当時はキリンビール工場の受付がありました。
私が家というものを意識したのは、父が家を建てた高校生の頃です。
それまでは我が家は父の社宅でした。
幼いころの住まいが、日本風に言う家の概念を包括していました。
その社宅が50年経ってもまだあることに感謝ですね。
それがなくなってしまうと幼い郷愁を培った家が消えてしまうことになります。
それは寂しいことです!
50年以上を経ても、昔と変わらない面影が仙台駅近20分あまりのところにあります。
それも比較的大きな面積です。
開発されずにあることの方が私は良しとしますが、45号線から南にあった城下町の面影濃い鉄砲町や二十人町は消えてなくなり、開発が進んでいます。
昔の面影はまったくなく町が消えてしまったかのようです。
昔を知るものにとっては寂しい限りですね!
昔を想い出して郷愁に浸っている自分がいます!
仙台駅から歩いて20分圏内に、そのときの私のフィールドのすべてがありました。
今の映像をGoogleストリートビューで紹介します。
国道45号線沿いのフィールドです。
小学校1年生のときのフィールドの限界点が花京院でした。
その交差点です。
45号線を東から西に見ています。
流石に駅手前の交差点なので立派になりました。
映っていませんが、左手に花京院スクウェアの高層ビルがあります。
この花京院交差点を東に向かって歩いて行きます。
最初は、空堀丁です。
花京院交差点から一つ目の路地です。
路地と言ってもいいでしょうね。
昔と変わらず道幅が狭い。
仙台駅から急げば5分程度で来ることができます。
もう少し発展してもいいような気がしますが、昔からの地権者が土地を譲らないのでしょうね!
看板を見れば分かりますが、ここの耳鼻科には随分通いました。
50年ちかく前から、よく言えば進歩的に耳鼻科系の手術を積極的に行った耳鼻咽喉科です。
私も2回くらい手術をしています。
人柱になったということです!(爆)
次は、宮町交差点、ここを左に行けば東照宮にぶつかります。
次の路地は金剛院丁です。
院がつく地名が多いですが、これは伊達藩の修験寺の名前なのです。
花京院、金剛院、そして後で出てくる大行院、どれも山伏のよりどころでした!
ここの角にある内科医院に父の往診を頼んだことを想い出します。
とにかく国道45号の北側に伸びる道路は昔も今も変わらず狭い。
再開発が進んでいない地域です。
次の広丁です。
少しは道が広くなったか?
いよいよ私が小学1年生の2学期から中学1年終了まで住んだ、大行院丁、です。
45号線を車通りと言いました。
大行院丁から車通りを見たところです。
向かいの左角に酒屋があり、父のお使いで徳利を持って酒を買いに行ったことを想い出します。
もう酒屋はなくなっています。
大行院丁の入り口に中華そば屋がありました。
とても美味しい中華そばでした。
50年以上前で1杯50円だったと記憶しています。
その1杯50円の中華そばを、年末に母が子供達を連れて食べさせてくれました。
当時は外食など滅多にしなかった時代です!(笑)
この右角にあったのですが、今はちょっとしたビルに変わっています。
北に進んで行きます。
銭湯がありました。
家にお風呂はありましたが、悪ガキ連中と連れ立って、よく入りに行ったものです!(笑)
ここには大きな八百屋がありました。
今はダバコ屋でしょうか?
そして食料品店があったところです。
今は違う建物です。
ここに、ボールを持参して豆腐半丁ください、10円の海苔1枚ください、などと言って買い物をしたものです!(笑)
ここには交番がありましたが、なくなっています。
ここの左官屋さんは昔通りです。
息の長い左官屋さんですね!
洋服店もまだ建物はあります。
ここも古いですね!
そして私が住んだ3Kの今風に言えばマンションです。
50年以上前でも浄化槽による水洗トイレでした。
キッチン、風呂もありました!
当時は、このようなマンション風の建物は周りに皆無でものすごく立派に見えました!
もっと家は立ち並んでいましたが、駐車場になっていたりします。
この先は、当時はキリンビール工場の受付がありました。
私が家というものを意識したのは、父が家を建てた高校生の頃です。
それまでは我が家は父の社宅でした。
幼いころの住まいが、日本風に言う家の概念を包括していました。
その社宅が50年経ってもまだあることに感謝ですね。
それがなくなってしまうと幼い郷愁を培った家が消えてしまうことになります。
それは寂しいことです!
50年以上を経ても、昔と変わらない面影が仙台駅近20分あまりのところにあります。
それも比較的大きな面積です。
開発されずにあることの方が私は良しとしますが、45号線から南にあった城下町の面影濃い鉄砲町や二十人町は消えてなくなり、開発が進んでいます。
昔の面影はまったくなく町が消えてしまったかのようです。
昔を知るものにとっては寂しい限りですね!
昔を想い出して郷愁に浸っている自分がいます!