1a52c6eb.jpg似て非なるものに頭を悩ましている。
悩ましているというよりも腹を立てていると言った方がよいかもしれない。
それも2年連続である。
他人に言えば、そんなことで腹を立ててるの、と斬って捨てられそうで、まだ誰にもこの思いは話してはいない。
昨年は、1600年の関が原の戦いが終わったばかりの動乱の世の剣豪の物語、今年は江戸末期、幕末から明治にかけての動乱の世に命を燃やした下級武士集団の物語についての考察である。

NHK大河ドラマの話である。
「小説と映画」でも述べたが、原作を読み知ってから見る映像に物足りなさを感じるのはいたし方ないとしても、昨年と今年の「宮本武蔵・新撰組」を見て思うことは、原作と「似て非なるもの」ならまだ許せるが、私にはまったく別物に思えてならないのだ。
どちらの原作にも、尊厳とも言うべき際立った人格があり、一途な武士道が尊厳に重さを加重している。「宮本武蔵」は原作と「似て非なるもの」、「小説と映画」で述べた違いで良いかも知れない。しかし、とても見る気にはなれなかった。一言でいうなら重さがなく軽いのだ。あらすじはかなり違っていたが、それだけのことで腹は立たない。
「新撰組」に至っては、まったくもって軽いのである。動乱の世の命をかけて意思を貫こうとする顔ではないのだ。どう見ても今のこの世の平和ボケした10代、20代と変わらない安穏とした顔が溢れている。(今のそういう若者が悪いと言っているのではありません。悪しからず)それは現代の若者が配役を演じているからではない。良く解釈するなら、これまでの原作そのものの既成概念を打ち破ろうとする製作者の意図を感じるのだ。それが不快感を増幅させている。
なぜなら、しっかりと加重された尊厳の基の際立った人格が物語を決定していると信じているからだ。
宮本武蔵も近藤勇も土方歳三も沖田総司も原作とはまったく違う人物である。
しかし、である。これこそが呪縛や洗脳そのもであったなら、製作者の意図は歓迎すべきことかもしれないと、おかしなことを思い始めた。そこに頭を悩まし、腹を立てる真の原因があるのだろう?実際にその時代をこの目で見、肌で感じたわけではなく、実際はどうであったのかはわからないのだから。
原作者はきっちりとした取材を基に原作を書いたに相違ない。それはすんなりと私の心を捉えて離さない魅力がある。私のというより、日本人のと置き換えてもよいのではないか?「宮本武蔵も新撰組」もこれまで幾度となく映像化されており、それらは原作に添う人格を与えられしっかりと加重された主人公が生きていた。それは原作とは違和感なく、見ていて心地よいのである。
結局は、自分の意に沿わないのなら、単純に見なければよいのだ。ただそれだけのことだ。
意に沿わないときに、製作者の意図など考える必要などない。
自由な発想があっていい。

「見ないぞ、決して見ないぞ、そんなもの!」