2017年08月13日

520人の命が紡ぐ物語!=32年前の忘れ得ぬ記憶=

32年前の暑い夏、8月11日に甥と二人で泊りがけで他県の海に釣りに行き、12日午後に疲れて帰り、夕食前からビールを飲んで暑さを凌いでいました。

19:00のニュースを見るためにテレビを点けると、日航123便が連絡を絶ったことを報じていました。
そのニュースが123便のクルーの紹介をしているときに、甥が「この人知ってる」と言い出し、一緒に来て別のところに行っていたママ(私の姉)に電話をかけ始めました!

聞いてみると、123便の航空機関士の方を良く知っているということでした。
住んでいるところが近所で家族ぐるみでのお付き合いがあるとのことでした。

そういうこともあって、とても強く印象に残っている航空機事故です。
身内に123便のクルーに知り合いがいたということなどは、ほんの些細なことです。
お盆の時期と重なったこと、東京・大阪間という最も乗客の多い路線であったことなどのため、乗客509人、乗員15人の524人が乗っていました。

0814-JAL123-03


羽田を飛び立って13分後に、最後部圧力隔壁が破壊し、急減圧を起こします。
その際の急激な機内空気の吹き出しが垂直尾翼を吹き飛ばし、油圧系統をすべて破壊しました。
その結果、糸の切れた凧のように操縦不能に陥り、クルーの必死の操縦努力虚しく、長野と群馬の県境にある御巣鷹山の尾根に墜落し、520人の命が失われたのです。
32年前の1985年、8月12日、18時56分のことでした。
一度に520人の命が奪われた事故は、1機の事故としては世界で最も不名誉な記録です。

20090612031554


奇跡的に4人が助かりました。
この人たちには、助かったことを重荷に感じることなく、しっかり生きて欲しいと願っています。

事故調査委員会の出した結論は、事故機が過去に尻もち事故を起こし、ボーイングから技術者が来日し、修理をしますが、その時の修理ミスが原因としました。

それに疑問を持つ考えもあります。
生き残った生存者に聞くと、事故の時、酸素マスクは降りたが、マスクを外しても苦しくはなかった、また寒さは感じなかった、と証言しています。
急減圧時には10分で気を失う7千メートル台を飛行していたこと、−40℃にはなったであろうと言われている飛行高度であったことなどを勘案すると、生存者の証言と事故時の状況が異なるのではないかとの疑義が生じました。
垂直尾翼に異常があったのではないかとの意見もありましたが、事故調査委員会は取り上げませんでした。

様々な憶測も飛び交いましたが、公式報告は圧力隔壁破壊による墜落事故、ということになっています。

この日航123便の520人の尊い命が失われた事故を内在した物語がいくつか存在します。
横山秀夫のクライマーズ・ハイ、山崎豊子の沈まぬ太陽です。
それぞれに重いテーマを持っている作品です。
520人の命が失われたのです。
その命には520の物語が存在します。

通常は、事故機のボイスレコーダーやフライトレコーダーは事故調査委員会でしか分析できません。
公には公表されない決まりなのです。

自己から15年後の2000年に、事故調にある様々な事故記録が破棄されました。
法律に基づいたもので、違法ではないのですが、その中に日航123便の報告書も含まれていました。
正式に事故調査委員会も公式文書の破棄を認めています。

しかし、公務員にも良心的な人間は必ずいます。
記録を破棄して良いはずはありません。
その記録の中には、操縦不能の中、数十分に渡って死闘を繰り広げた操縦クルーのボイスレコーダーも含まれていました。

それらが、良心的な人々によって世に知らしめられたのです。

何度聞いても、グッとくる正に死闘です。
クルーのご家族は日航側クルーということで、誹謗中傷にあったことも多々ありました。
このボイスレコーダーの公開で、不名誉どころか墜落間際まで糸の切れた凧を何とかしようと奮闘していたことが明らかになったのです。

事故後20年目の2005年に放送された、「ボイスレコーダー ジャンボ機墜落20年目の真実」というドラマとドキュメンタリーを合わせた映像があります。

15年後の2000年にボイスレコーダーが公開されるまでの事故関係者の物語を綴ったドキュメンタリードラマです。

30代までの若い人に見ていただきたい。
520人の命が一瞬にして奪われることがどういうことなのか知って欲しいと思います。
昭和60年に起きた、間違いなく昭和史に残る世界を震撼させた航空機事故です!

kenhappy1 at 00:00│Comments(0)徒然なるままに 

コメントする

名前
URL
 
  絵文字