慶応3年11月15日、1867年12月10日が坂本龍馬暗殺の日です。
今年は龍馬暗殺150年の節目です!

Sakamoto_Ryoma


坂本龍馬を暗殺した人物は京都見廻り組の佐々木只三郎でした。
薩長同盟や大政奉還をさせた張本人の坂本龍馬を彼自身が許せなかったのは確かでしょう!
暗殺したいと思うほど、個人的にかなり強い憎しみを抱いていたのでしょう。

坂本龍馬は稀代の今風にいうフィクサーでした。
面倒ごとを仲介し、大団円に導く天才でした!

薩長が、幕府を倒すお墨付きを岩倉具視と図って朝廷から取り付けたと言われていますが、偽勅との説もあります。
戦を避けたい龍馬は、徳川慶喜を大政奉還に導きました。

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徳川慶喜にしてみれば、薩長に倒す相手を失わせるのにこれほどの策はなく、薩長に一矢報いたと得意だったに違いないのです。
そして、政権を譲り受けた朝廷が、どのように世の中を治めるのか、困り果てることまで見越していました。
きっと徳川慶喜に泣きついてくると!

そういう意味で、敵対する同士を行き来する稀代のフィクサー坂本龍馬を岩倉具視も薩長も苦々しく思っていたに違いないのです!
端的に言うと暗殺したいとさえ思っていたかもしれません。

佐々木只三郎の龍馬憎しは、新撰組や幕府にも広く知られていました。
勿論、岩倉具視や薩長も知っていたはずです。
そして、佐々木只三郎を利用して坂本龍馬暗殺の手助けをしたとしても可笑しくはありません。

一見、幕府側にしてみれば、大政奉還を実現させた坂本龍馬は一番の敵に違いありませんが、実際のところは、坂本龍馬は徳川慶喜を筆頭に薩長、土佐の大名で政権を作ろうと画策していました。
幕府の若年寄、永井尚志(ナオユキ)にそのことを説明し、薩長を必ず説得し、徳川攻めを止めさせる旨を説いていたに違いないのです!

当時は、三派あり、今説明した坂本龍馬の主張、そして徳川を排除して主に薩長で政権を作ろうとする大久保、西郷らの薩長中心の一派、そして会津容保を中心とする幕府存続派でした。

龍馬の真意を聞いた永井尚志は、龍馬が徳川にとって必要欠くべからざる人物であることを理解しますが、とき既に遅しで、佐々木只三郎から龍馬を守ることはできませんでした。

龍馬が暗殺されずに永井尚志によって守られていたら鳥羽伏見の戦いはなかったかもしれません!

龍馬は土佐藩士に復帰しており、故に守りを重視して土佐藩邸に入れば暗殺はなかったと言えますが、フィクサーである龍馬には、門限などある藩邸は様々な相手と交渉するには邪魔な存在であったに違いありません。
安全よりも自由を選びましたが、土佐藩邸から甍が5mも離れていない近江屋に潜伏していました。
何かあったときにすぐに逃げ込める距離を保っていたのです。

その潜伏先の近江屋を佐々木只三郎に知らせたのは岩倉と画策した薩摩だったとの説もあります。

武士の矜持などないような暗殺でした。
頭を割られ、30か所以上の刀傷があったと言われています。

佐々木只三郎は、武士の威厳よりも、とにかく龍馬を暗殺したかったのでしょう!
幕府の誰かに命令されての暗殺なら、きっと尋常な勝負のようなことになったのではないかと思います。
幕府とは関係なく、とにかく龍馬が憎かった。
その憎しみだけで刀を振るった結果の暗殺でした。

返す返す残念な龍馬の死でした。
たられば、は考えない方が良いのでしょうが、己を捨て大義に生きる、正に武士として脱私即的(現参議院議員青山繁晴氏独創の4文字熟語)の天分を持って事にあたる龍馬が生きていれば、幕末の歴史がもう少し優しいものになったと確信しています!

龍馬暗殺150年目に、こんなことを考えて物思いに耽っていました!(爆)