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1972年(昭和47年)は閏年です。
当時の2月28日の天気予報は雪で、作戦決行には不向きとみた警察庁机上組は、あさま山荘事件幕僚団長の丸山警備局参事官に電話で2月28日の作戦決行を29日に延期するように指示します。
事件現場の長野県警と幕僚連は2月28日人質救出作戦決行で燃えていました!
気転よく電話を変わった実質のあさま山荘事件指揮者、佐々淳行幕僚長は言います。
「今年は閏年です。隊員に万が一にも殉職者が出た場合、命日が4年に1回しかないことになります。これって問題ですよねぇ!」と軽く警察庁の机上組を去なします。
人質救出作戦の2月28日決行は揺るぎないものになりました。

これまで何度も書いていると思いますが、当時私は高校3年生で卒業式は2日後の3月1日で既に首都圏の大学に入学が決まっていました。
耳鼻科系に疾患があり、手術のために首都圏の病院に入院していました。
卒業式は出ないことになっていたのです。
2月28日はちょうど手術日で、手術は無事終了します。
まだ麻酔が効いていて、ポヤーンとする中、鉄球をクレーンで操作するモンケーンの迫力ある山荘壊しの場面をテレビに齧りついて観ていました!(笑)
2階から3階に掛かる階段をモンケーンで破壊し、その後にモンケーンを爪に変えて屋根を剥がし、犯人を検挙する計画でしたが、計画通りには進みませんでした。
クレーンのエンジンに水が入り駆動しなくなってしまったのです。

肉弾戦となり人海戦術の持久戦になってしまいます。
人質は無事救出されますが、2名殉職、26名が重軽傷という警察にとっては不名誉な結果となりました。
この他に民間人1名が銃で頭を撃たれ死亡しています。
報道関係者1名が負傷しました。

「日本のいちばん長い日」という映画がありました。
差し詰め昭和47年2月28日は「警察のいちばん長い日」として広く日本国民の記憶に残る日となりました。
実況中継として作戦の最初から最後まで生放送されたドキュメントは後にも先にもこの「連合赤軍あさま山荘事件」が初めてでしょう!

学生紛争最後の足掻きとなりました。
その後、連合赤軍の血の粛清、集団リンチ事件が明るみ出て12名の殺人が確認されました。

これを最後に学生紛争は収まり、大学は正常化したのです。