a25cf568.jpeg自分のキャラクターとはどんなものだろうか?
それはきっと他人が決めることなのだろう。
自分はこうだと思っても他人が違うといったらそれまでである。
常に誠実で、物事を真摯に考え前向きに生きていく。きっとこれが一番ダメなのかもしれない。
自分を出せば世の中生き難い。思想などと高邁なことは言わないが、自分の信条というものが誰にもあって、それが自我と結びついて頑なに主張し続ける。それは間違いなくその人のキャラクターであるに違いない。しかし、これでは前述のように生き難いのだ。自分の自我を押し殺して、別の自分を創ろうとすればかなりの精神的苦痛が伴うことは容易に想像できる。
自分を変えなければ他人も変わってはくれない。人との関わりの中で生きていかなければならない人間には自我を折ることは必要最低条件である。
人との関わりがイコール仕事の場合は、精神の状態としては、二重人格としての自分が存在しないと自分としてのキャラクターが死んでしまう。他人を心地よくさせるには別の自分が必要なのだ。それは問題を起こす犯罪者の2重人格ではない。他人を心地よくさせるための便法である。他人が心地よければ自分も心地よくなれる筈なのだ。
10代後半から自我を主張し続けてきた。それは自分の生そのものだったが、50代となり毎日積極的な人との関わりの中で生きている。別の自分が存在しないと他人が安らかになれない。自分自身のキャラクターは自分の生の証として、どこにも捨てようがない。自我と共存したキャラクターはただ一つで、他人を心地よくさせるためのキャラクターは創らなければならない。誰もが意識せずにやっている処世術なのだ。
楽しく笑いが零れる自分でありたい。

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