865001d5.jpgもうすぐ30年になる。そのうち通算20年くらいは毎日、自分の足として使ってきた。22歳で車の免許を取得してから常に身近な存在であり、地方都市に住む身としては無くてはならない移動手段の道具である。
車を買い替えるときに参考とするため、毎回ではないが徳大寺有恒氏の「間違いだらけのクルマ選び」を読んで見ることがある。ここに1986年度版、1994年度版、2000年度版の3冊がある。それぞれにその年の特徴があるが、86年度は「日本車が真に外国車に追いついた年」としている。94年度版は「ようやく日本にもアメリカ並みの安全基準ができた」であり、2000年度版は「自動車界再編の嵐の中、21世紀のクルマが見えてきた」である。
1986年〜2000年の16年間を見ると、消費者の動向を見ながら、新車の開発、生産中止を繰り返してきた様子が見えてくる。将来を見据えてビジョンを実践できたメーカーは生き残り、他は外国資本に吸収されてしまった。純粋な民族資本を維持しているのは、トヨタとホンダだけになってしまった。
86年度版には約92台の車批評が掲載されている。その中で、2005年の今、消えてしまった車は約39台ある。約42%の車が消えている。
94年度版には約130台が掲載され、約47台が消えている。約36%である。
2000年度版には約136台が掲載され、約10台が消えている。さすがに5年くらいでは消えてしまう車は少ない。約7%である。
この2005年度は、車の数は半端ではなく多くなっている。これまで長年親しんできた車名が消えてしまったものも多い。
最近思うことは、自動車のような比較的価格の高い耐久消費財でも、大量生産の時代ではなくなり、多品種少量生産に移行した、ということである。もう何年も前にビールで驚かされた多品種少量生産である。
このデフレぎみの経済指向であって、物の価格が下落する中、自動車だけは値崩れを起こしていない。皆さんは不思議に思ったことはないだろうか?今、100万円では小型車も買えない。100万円は決して少ない額ではない。150万円〜200万円を視野に入れないと小型車も買えない。車は最早国民にとっては必需品になりつつある。特に交通網の未熟な地方都市ではその傾向が強い。
必需品は安くなければならない。これは経済原論を齧じったものなら誰でも解ることであり、経済原則なのである。
それが高いままなのは、偏にその価格でも売れるからである。お金はある程度持っているが、余計な物には使わず、必要なものだけ買う、当たり前のようだが、これが徹底している。車には惜しげもなく金を出す、国民の消費動向が見えてくる。
そして多品種少量生産、すなわち「お好きな車をお選びください、しかし、お渡しできるのは3ヶ月後です」なのである。受注生産が原則なのだ。当然コストもかかることになり、いつまでたっても車は安くならない。
これでいいのか?車はもっと安くなるべきものである。
車は最早ステータスシンボルではない。パーソナルなものであり、自分にあった個性的な車を選ぶ時代である。
3000ccの車であれ、1300ccの車であれ、自分のライフサイクルに合う車を持つのが今風に言えばナウイのである。価格は高いが、それだけの様々な車種が用意されている。
どうも、自動車メーカーの戦略に乗せられてしまっているな、と思いつつも、多品種少量生産を肯定している自分がいて複雑な気持ちになる。